2ntブログ

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

--/--/-- --:-- | スポンサー広告 | PAGE TOP▲

妊婦ネタについて、とか

・PSPで某ソフトをプレイしたんだけど、
中出し妊娠ルートのプレイがかなりつらかった。

ヒロインを妊娠させた後の主人公の態度のひどさ、
無責任さ、思いやりのなさ、不真面目さ、自分勝手さなどが、
あまりにひどくて見てらんないって感じだった。

あまりにひどい対応ばっかりするから、
この後どんなひどい結末が訪れるんだろうって、
ハラハラしました。嫌な意味で。
(とはいえ、こんなソフトはこの世から撲滅すべきだ!、なんてことは思いません。)

途中、なんだかんだでヒロインと特別な関係になれたことで、
少しは主人公も更生するのかなって、
ヒロインや生まれてくる子のために真面目にがんばるようになるのかなって
思ったりもしたんだけど、最後までその期待は裏切られ続けた感じ。
まあ、一応、子どもが産まれたら産まれたで、ヒロインに尻を叩かれる形で?
なんとかやっていけるのかもしれないな・・・と思えないでもないんですが。
(出産してお腹から赤ちゃんがいなくなれば、ヒロインとのセックスを無理に我慢する必要もあまりなくなるでしょうし。)

どうも、この作品の主人公は、
肉欲の割合が極端に大きいようで。
肉欲だけでなく、自分を愛してくれるヒロインや自分とヒロインとの子への肉欲以外の愛情も
もっと持ち合わせていてくれれば、良かったのになあと思います。

完全な純愛ルートはないゲームなのかもしれないけど、
どちらかと言えば純愛に近いと思われるルートの方なら、あまり抵抗なく楽しめそうかな?
近日中にそっちのルートもやろうかなと。

んー、まあ、でも、携帯機でエロゲーとか物語系をプレイできるのって、
いいなあって思います。
PSP版水月もやっぱ買いかなあ。


あー、あと、
やっぱ思うんすけど、
妊娠ネタというか、妊婦ネタはやっぱ好きになれないなあと。
いや、まあ、中出しを否定するわけじゃないんすけどね。
妊娠も、まあ、ものによっては良い。
ただ、孕ませる、種をつける、ってのはいいとしても、
赤ちゃんの存在感の大きいお腹の大きな妊婦とセックスとか、そういうのは、ちょっと。
生々しすぎると言うか・・・。

まあ、中出しすりゃ妊娠してもおかしくないだろってのは、そりゃそうですし、
妊娠・出産はある意味素晴らしい生命の営みだと思うところもありますし、
もし自分に子どもが産まれたらすごく感動するかもしれませんが、
少なくとも今の僕にとって妊婦・出産ネタとエロとの親和性は高いものではないというか。

特に、ラブラブなエッチと妊婦はまだ親和性があるにしても、
鬼畜系のエロと妊婦の組み合わせはどうにも・・・。

エロ漫画やエロゲーやAVなどで中出しシーンに興奮するのは、
あくまで中出しすることで征服感というか達成感というか肯定感などを
妄想の世界の中で都合よく満足させることができるからであって、
現実的に考えたらそれやると不都合なことがでてくるよねって部分には
敢えて触れないで無視しているからこそ、楽しめるわけで。
(勿論、そうでない人もいるでしょうが。)

本当に女の子が悲惨な思いの人生を送るだとか、自分自身それを行うことによって
大変な目に遭うとか、そういうのは、好ましくないわけで。

いや、現実を見ることは大事だと思いますよ。
現実と妄想・フィクションの区別がつかずに、現実でもゲームや漫画の中と
同じことをするというのでは、良くないのは、よく分かります。

ただ、日々の生活で満たされない欲求不満な部分を、
妄想の世界に遊ぶことで上手く解消することには、
大いに意義があると思うんですよね。
(漫画規制とかをやりたい人たちは、多くの場合、そういう意義を無視しているように思えますが。)

エロゲーやエロ漫画やAVにおける中出しは、
多くの場合、その行為を行うことによって、
自分が相手にとって特別な存在になったという感覚、
自分が相手との特別な結びつきを得たという感覚を得るための、
記号的な意味合いを持つ行為としての色合いが濃いと思うんですよね。
かわいい女の子を俺色に染め上げるとか、自分にとって都合のいい存在に仕立て上げるとか、
そういう感じの。

だから、その中出しで相手が妊娠してその後大変かわいそうな思いをするだとか、
現実世界にどのような影響が出るかとか、
そういうことはどうでもいいというか、
そういう問題とは切り離された別の次元の話だと思うんですよね。

中出しは、あくまで象徴的な行為として、重要な価値を持っているというか。
好みの女性を自分のものにする、自分にとって都合のいい存在にする、
そのためのマーキングっていうか、中に出すことが、その証明というか、
中に出せば、その女の子は自分のものになるっていうような、
そういう認識が、都合の良いエロ妄想の世界においては、
まかり通ると言う感じか。
(もちろん、現実にはそういうもんではないってことは、
総合的に考えれば分かるのだけど、エロ妄想の世界では、
徹底的に自分の性欲に都合のいい論理がまかり通るようになってるから。)

妄想の世界で中出ししといて後のことを考えないのは無責任とか、
そういうのは違うと思うんですよ。
あくまで、これは現実とは違う妄想の世界のお遊びだと分かった上で、
性欲を爆発させてるだけなんですから。
現実と非現実の違いを最初から分かった上で、
安全な箱庭の中でのおままごと的な形で、楽しんでいるだけなんですから。
現実とは前提が違うから、そこでの中出しの意味合いも当然違ってると思うんですよね。


現実にはそうそう上手いこといかないよなってことでも、
妄想の世界ではもし上手く行ったらいいよねってのとか
妄想の世界の仕組みと現実世界の仕組みは実は違ってるからそこは心配する必要はないとかってのを、
敢えて空想の世界で疑似体験し、それによって満足感を得ていることが多いと思う。
そして、それを規制するということは、現実を見たときにあまりに無理があると思う。

無理やり中出しの良さは、あくまで、魅力的な女性(女体)と結びつきたいという思いが根底にあり、
その思いに特化した形での妄想による欲求不満解消法であると思う。
女の子を悲惨な目にあわせることが目的ではなく、魅力的な女性(女体)と結びつきたいという思い
を満足させることこそが、目的なのだ。
まあ、無理やりやっちゃうとなると、それは冷静に考えると、相手を傷つけ、相手に嫌われることに
繋がるものだろうけど、エロ妄想の中では、それはあまり意識されない。
だからといって、現実にそれをやっていいと思っているわけではない。
自分が捕まるかもしれないからとかそういうことだけでなく、相手への思いやりも現実には持っているから。
むしろ、現実には相手への思いやりや相手の苦しむ様を見たくないって気持ちをもっているからこそ、
エロ妄想において、相手が自分の許容度を超えてひどく悲しんでいる情景を妄想の中に入れて意識してはならない。
それを意識すると興醒めになってしまうから。
無理やり犯すってシチュだから、ある程度、相手が嫌がってるシーンはあるはずなんだけど、
その嫌がり方とか、その相手の様子から受けるかわいそうさが、ある一定のラインを超えていないことが
大事だということ。

エロ妄想の中でのみ、普段相手への思いやり等でセーブしている部分を解き放ち、
好みの女体との結びつきを、欲するままに好きなだけ味わえるという、
夢のような体験を性欲の赴くままに疑似体験することを行っているのだと思う。
好みの女性を見つけたら、難しいことを考えずに、全て自分のやりたいことをやることができる、
そういう極楽感を味わうために、無理やり犯すというシチュエーションが効いている。
正攻法ではまず味わうことができない高レベルな女体を味わえているのだって感覚とか、
相手の都合への配慮とかそういう面倒なことは今は忘れて自分の好きなことを満喫できているんだって
解放感とか、そういう特別な体験をできているのだという感覚をを効果的に味わうために、
いちいち相手にお伺いを立てずに好きなことをしているというシチュエーションが、よく合っているのだろう。
とはいえ、相手を踏みにじること自体が楽しいのではなく、あくまで自分にとって
見ていてうれしい状態に相手をもっていくことが楽しいのであり、
ただ相手を困らせればそれでいいって訳じゃない。
相手を犯せることはうれしいが、相手が悲惨な状態になるのがうれしいわけじゃない。

普段獰猛な性欲を抑えている理性による監視を、妄想の世界においては解除することによって、
性欲を自由奔放に遊ばせてやり、満足させてやるという感じ。
普段は様々な事情からせまい檻の中で飼っているペットを、たまの休日に
大草原の中で好きに遊ばせてやることで、ペットのストレスを解消させてやるように。

何故無理やりやることにこだわるのか、
何故、普通は受け入れてくれるはずのない状況で何故か喜んで周りがそれを受け入れてくれることになったって
シチュではダメなのか?
いや、まあ、ダメではないんだけど、
やっぱ、どっちが身にしみるかっていうか、どっちがより没入できるかって話だと思う。
いつも誘惑と戦いながら必死に我慢している状況で、もし理性を一時的にオフにして我慢しないでやってみたら、
すげー気持ちいいだろうなっていう、感じ。
ただし、そこで満足させることができるのは、どちらかといえば肉欲主体であり、
相手に心から温かく迎え入れられることとかを多く求めるならば、無理やり系ではなく、
女神が僕に舞い降りたって感じのシチュの方が良いだろうなと思う。
ただ、現実世界において、美女から見向きもされないような生活を送っている者にとって、
急に女神が自分の前に舞い降りて自分を受け入れてくれるって妄想は、いかにも作り物っぽくて、
感情移入しづらく、結果として、あまり夢中になれないものであることがよくあると思う。

普段経験している抑圧からの解放がキー。
そして、その抑圧からの脱出方法が、
自らの手で押しのけるか、誰かが解放してくれるのを待つのか、
その違いって面もあるかな。
自分が相手にするか、相手にされることを望むか、その違いとも言えるかもしれない。
そう考えると、やっぱ僕はどちらかと言えば、S的なところが勝ってるのかもしれないな、
なんて思う。
Sな部分もMな部分もあるとは思うんだけどね。
でも、どちらかと言えば、S的なシチュの方がしっくりくることが多いかなと。
まあ、SかMかって話じゃないかもしれないけれど、なんとなく、
共通点があると思ったりするのだ。
相手の反応を引き出したい性格か、相手に反応したい性格かって感じの違いとか。
んで、自分は前者の色合いが濃いなと最近よく思うのだ。
上では抑圧を押しのけると書いたが、それは第一歩に過ぎず、
相手を喜ばせることも含めて自らの手で積極的に何かを達成することを自らの喜びとする性質。
達成することへの憧れとでも言うべきか。


以上の話と関係するといえばする話ですが、
最近また東京都を中心に漫画などを規制する動きが活発化しているようですが、
由々しき問題だと思っています。
なんとかしないとなって思います。

2010/12/02 05:02 | 日記 | COMMENT(0) | TRACKBACK(0) | PAGE TOP▲

コメント

コメントの投稿



管理者にだけ表示を許可する

トップへ戻る